CULTURE 2026.3.12
PASS
音楽を開かれた環境で——
VENTプロデューサーが手がけたリスニングバー「PASS」の目指す世界
Photo Yuki Aizawa
Interview & Text Hiroyoshi Tomite
数値やスペックに囚われず、
音を純粋に楽しめる環境を求めて
渋谷東の雑居ビルの一室に、2026年3月6日、一軒の隠れ家のようなリスニングバーが誕生した。名前は「PASS」。表参道のテクノ・ハウス専門店「VENT」のプロデューサー・大城啓一郎が、5年という年月をかけて辿り着いた場所だ。DJブースもミラーボールもない。ターンテーブルが一台、向かい合うようにスピーカーが置かれ、石のテーブルが中央に据えられた空間。
「元々ダンスミュージックだけが好きなわけじゃなかったので、そんなに意識を切り替えた感じでもなくて。本当にいい音を、ずっと違う形でも提案したかった」
コロナ禍でクラブイベントが軒並み休止に追い込まれた時期、大城はサウンドシステムの研究に没頭した。古い論文を読み漁り、新しい技術と照らし合わせながら、音の可能性を探り続けた。そこで出会ったのが、SRスピーカー(クラブ・ライブ用の大音量システム)とは異なる「ピュアオーディオ」という領域だった。
「いい音を目指していくと、当然そっちも視野に入ってくる。でも一部のマニアや富裕層しか体験できないものをみんなにシェアすることに、価値があるんじゃないかと思ったんです」
VENTでの知見は、音響設計の細部——スピーカーの置き方、ケーブルの選択、スイートスポットの設計——に活きている。ただ、PASSが選んだスピーカーはエンジニア的な観点から言えば「数値的なスペックだけでみると決して優れたスピーカーではない」と大城は笑いながら言った。低域は伸びず、中域に独特の個性を持つ。多くの人が目指す高解像度やフラットな再生とは真逆の性格を持つ。しかし実際に音を聴けば、その言葉の意味がわかる。管楽器は存在感をもって鳴り、ボーカルは等身大に空間を満たす。数値ではなく、体が感じる「楽しい音」を、大城は選んだ。
「世代も、国も、数値も超えて伝えたい、というのがコンセプトです。言葉が分からない曲でも心をつかまれる感覚がある。そこが面白い」
選曲のスタイルも特徴的だ。PASSではレコードや高音質のデジタル音源を使いながら、ジャンルや年代を越えた音楽体験を提案している。将来的にはDJを招聘したイベントなども構想している。ジャンルに優劣はないという考えのもと、「そのジャンルのトップクラスの人たちと、クラブではできない何かを」というキュレーションを目指す。
「VENTのファンの人たちにも、ここでかけるような曲を聴いてほしい。音への入り方(没入)が、普通に聴くのと全然違うから」
ダンスカルチャーへの鋭い眼差しから生まれる
ポジティブに音を楽しむ場所
これまでVENTを通じて東京のクラブシーンを牽引してきたからこそ、世界のシーンに向ける視線にも、大城の立ち位置は滲む。
「音楽の力はあるけど、なんとなく破滅に向かっていってる感じがして」と彼は言った。行き過ぎた快楽主義、過剰音量による難聴問題などが現在のシーンにあるという。PASSが志向するのは、その対極にある「ポジティブな音の力」だ。音楽が人を幸せにする力を、もっと純粋な形で昇華させたい。VENTをやっているからこその視座に説得力が宿る。
その思想は、歴史ある日本のリスニングカルチャーとの距離感にも表れている。
「ジャズ喫茶みたいに『喋らないでください』というのも素晴らしい文化だと思う。でも僕たちはもっと多くの人に気軽に楽しんでほしい。目をつぶって没入する人がいてもいいし、友達と喋りながら楽しむ人がいてもいい。お互いの楽しみ方を邪魔しない範囲で」
カクテルはバーテンダーとのコラボで開発したレシピを軸に、ナチュラルワインも揃える。ただし主役はあくまで音で、飲み物はそれを支えるための存在だ。「音楽施設はお酒がまずい、という印象がある。そこはしっかりクリアしたい」とも付け加えた。
渋谷東という立地も意図的だ。再開発が進む渋谷の中心から少し外れた場所。「駅から近いのに隠れてる感じ。外れだからこそ、外れにしかできないことができたらと思ってる」と大城は言った。カルチャーの中心地でありながら、その喧騒から一歩引いた静けさ。そこにPASSは根を下ろした。サウンドシステムの研究に2年、物件探しに2年、構想全体で5年。その時間の重さを、空間はどこかで体現している。
誰かが「この音、知ってる」とふと反応してしまうような曲が、ここではじめて「ちゃんと聴こえた」と感じる瞬間のために、この場所は作られた。それぞれのアンテナに基づいて導かれるようにPASSにたどり着いた人たちの間で、そんな言葉が投げ交わされる夜が、これからの渋谷をより豊かに彩っていくのだろう。VENTを経た美学に基づいて設計された「重すぎず、開かれた場所」。だからといって軽すぎない音との対話。そういう時間の蓄積がお客さんの間でなされれば、一過性のリスニングバーブームの枠から遠く離れて、新しい音体験を楽しむ文化ができるだろう。問われているのは、楽しむ側の姿勢なのかもしれない。
Information
PASS(パス)
2026年3月6日オープン。VENTプロデューサー・大城啓一郎が手がけるリスニングバー。大型ピュアオーディオによる音響空間で、クラブや自宅では味わえない音楽体験を提案する。レコードや高音質のデジタル音源を用い、ジャンルや年代を越えた音楽を楽しめる。
東京都渋谷区渋谷3-15-2
F93 Shibuya II 3F
18:00–24:00(月曜定休)
Instagram:@pass.tokyo
